①


 一息にそこまで語って俊吉は疲れてしまった。香耶は一心に聞き入っていたが、

 「おにいちゃんて可哀想ネ。でも・・・奥さんももっと可哀想よ。」

 「よく判っている。あいつはあいつなりに幸せを作り出そうと努力しているし、それはそれでよくわかるけど、やっぱり二人は結婚すべきではなかった・・・と思う。ベビーが出来てしまったのがすべての間違いのもとさ。」 

 俊吉はそう言いながら、冷たく自嘲するように笑った。

 暮れ初めた加茂の河原に、相変わらず風が気持ちよく吹いていた。二人は故郷ででの幼い二人に帰っていた。俊吉の一ヶ月の留学中、殆ど毎日逢っていた。香耶もつれづれに詩を書いていると言ってニ、三見せてくれた。所々に鋭いものが見られたが、俊吉からみるとまだまだ幼稚であったが、彼は香耶を彼の関係している詩誌の同人に」し、大勢の批評に揉まれるならきっと良くなると思い、岐阜の詩誌仲間へ送ってやった。そして、詩誌を通じてだけであったが、香耶と俊吉は繋がり持つことになった。

 俊吉は香耶に読書をすすめた。何を読んでいいかわからぬという香耶に、先ず何でも読め、と、とりあえず、三木 清の「人生論ノート」、立原道造詩集、倉田百三の作品等を与えた。それで二人は幸せだった。二人のデートはいつも決まって文学論か詩論、人生論であった。俊吉はこういう触れ合いが出来ない勢以子を妻としたを今更悲しいと思いながら、自分の人生の選び方に諦めを持ったことが正しかったのかどうかふと惑わずにいられなかった。

 

 一ヶ月はすぐ経ってしまった。臨床的には特に京大へ来たからといって、得るものはなかったが、香耶との再会が大事な宝物として俊吉の胸の奥に秘められた。

  

 秋がそろそろ近づく頃、俊吉は京都を離れ、岐阜の妻子のもとへ帰った。一年後に異常な邂逅をする予感は二人には何もなく、笑って京都駅のホームで握っていた手を離した・・・。



                    ②

 人には夫々の歴史があり、好むと好まざるに拘らずそれを変えることは出来ない、自分の歴史でありながら自分ではどうすることも出来ない。

 香耶は奇妙な静けさの中でそう思うと寧ろ可笑しくなった。やけになっている気持ちはさらさら無かったが、今になって、別の自分が冷たく自分を冷たく凝視しているのを却って気持ちよく受け止めていた・・・。

 

 それは三年前のある多忙な日の午後だった。吾を忘れて動き回っていた時間がふと途切れた時、香耶は気が遠くなった。それから度々軽い貧血の発作を繰り返したため、半ば強制的に内科を受診させられいろいろな検査の後で一ヶ月の入院加療を命じられた。告げられた病名は「鉄欠乏性貧血」ということだった。


 毎日の静脈注射の液が紫色であるのが気になって、ある日主治医の橋本医師に何気なく訊ねた。変に慌てて彼は、

「これはメルチオB12」と言って、メチオニンとビタミンB12の合材で、色はB12の色だよ。」

 と言い残し、そそくさと出て行った。

 {あれ?」

 と香耶は思った・・・。

 メルチオB12は、眼科でも視神経や網膜の病気にかなり一般的に使われており静脈注射は不可の筈であった。

 香耶は直感的にこれは変だと感じた。

 何故? 何故?・・・。

 その晩、一つの計画を持って看護師詰所を覗いてみると確かめていた通り学院同期の川崎智子がポツンと坐って本を読んでいた。

 「トンコ。ちょっとお邪魔していい?。」

 「あら、カヤ。大丈夫?。二十分ほどオエライさんいないからいいけど・・・。退屈するようじゃそろそろ退院ネ。」

 「うん。」

 うわの空で返事しながら、壁際に患者別にきちんと並べてある翌朝用の注射液、ピストンの入っているトレイの中からたやすく「二百三」を見つけた。

 冷たい金属の皿の上に小さなバイヤール瓶が二つ並んで立ててあった。

 ”マイトマイシンC”と、”ナイトロミン”であった。

 紫色の粉が、香耶の心を見透かすかの様に美しい結晶を光らせていた・・・。

 それが最近開発された抗癌剤であり、特にナイトロミンは、白血病の専用治療薬であることを知らない香耶ではなかった。

 香耶は凡てをを悟った。そして、つとめて冷静に川崎智子に分かれを告げ、ベッドへ帰った。

 「私が白血病・・・?」

 何度も反芻してみても遠い世界の出来事のように思えた。だが、そうだとすると・・・・

 「そうだ、いろいろ考えなくっちゃ・・。」

 もともと"生”に対する執着はそんなに強くないと日ごろ思っていたとおり、死ぬことに対する恐怖はさほど湧かなかった。

 ただ、どれだけ生きれるのか知らないが、この青春真っ只中の短い灯りを心ゆくまで明るく光らせなければ・・・。

 「明日は先生にはっきり聞いてやろう」

 總回診の後、皆が引き上げてしまった時、香耶は橋本医師を前にして静かに言った。

 「先生・・・。私、いつまで生きられますか・・・。」入局三年目の橋本は、こんなケースには馴れていないらしく、見るからに慌てて、おどおどと型どおりのムンテラ(病状の説明)をまくし立てた。

 「全部知ってるんです・・・。だから・・・何時までか、教えて下さい。」

 香耶の冷静さに橋本は医師のタブーを破らざるを得なかった。

 「そう。すると、三年か五年は何とか生きれるんですね・・・。先生!退院させて下さい!。いいえご心配なく、大事な人生を無駄にしたくないだけです。」

 何かくどくど言いたそうな橋本医師の機先を制して、香耶は翌日の退院許可をとってしまった。

 俊吉とは、彼の京都留学を契機に、お互いの心の奥にほのかな愛の兆しを知りながら、表面だけは、親しい友人の再会で終わっていた・・・。

 香耶は岐阜の大学の俊吉宛に初めて便りを書いた。

 「・・どうしてもお話しなければならないことが出来たの・・・一度逢って下さい・・・。」

 一年ぶりに懐かしい香耶がそこにに居た。

 もとから色白だった肌はひときわ抜けるように白く、うなじの細い産毛が絹糸のように眩しかった。

 大きな眸は相変わらずだったが、今までにない燃え上がる炎をその眸は映していた。

 貧血発作を繰り返したこと。

 たまたま白血病であることを知ってしまったこと。

 この三年間は自分にとって掛け替えのない大切なものだし、一生懸命生きて、命の燃え尽きる日まで自分を見つめていたいこと。

 俊吉を心から愛してしまっていること。

 両親のこと。

 許婚のこと・・・どうしても結婚して家業を継がなければならないこと。

 香耶は一気にしゃべった。

 「・・・それで・・・両親には病気のこと言ってあるの?。」

 暫くして俊吉がポツリと言った。

 「・・・・」

 黙って香耶は首を横に振った。

 「わかった・・・香耶の気持ちよくわかった。・・・すぐ秀夫に会ってとことん話してみる。そして一日も早く結婚するんだ。これから俺が脚本を書くからその通り演じるのだ。

 俊吉が、京都郊外山崎の洋酒工場へ秀夫を訪ねたのはその翌日であった。

 「・・・そんな訳で少しでも早く香耶と結婚してほしい。三、四年経てば香耶は死ぬから、君は香耶の家へ入ってそれから又、新しい嫁さん貰って人生を送ってくれればいいのだ・・・。」

 「要するに、おまえのためにロボットになれと言うことか・・・。」

 「ちがう!俺のことはどうでもいい。独りの若い女が、短い人生を、せめて自分なりに生きたいというのを、どうしていけないことと言えるのか、俺は彼女が可哀想だから頼んでいるんだ・・・。」

 「かわいそうなはほれたってことよ・・・か。俺はガサツな男だから感情の機微はわからないけど・・・。どうも理屈にならんな。」

 小学校時代から理数科が得意で、特に算数、数学ではいつも俊吉はシャッポを脱がされていた。

 「君は相変わらず論理的すぎるようだが、考えてくれよ。ひとり身で船場酒造へ養子に行き、三、四年先に

嫁さんを貰うんだということで気持ちを納得させられないか。」

                -続くー