ご愛読有難うございました。私小説ゆえどうしてもプライバシーに触れる部分を避けて通れない状態も出て来ました。


それが私事に入りすぎる、との叱正を拝受する羽目になりました。


残念ながら此処で筆を止めざるを得ません。未完のままで大変心残りですがこれまでと致します。


お詫びまで・・。

                      ①


 一息にそこまで語って俊吉は疲れてしまった。香耶は一心に聞き入っていたが、

 「おにいちゃんて可哀想ネ。でも・・・奥さんももっと可哀想よ。」

 「よく判っている。あいつはあいつなりに幸せを作り出そうと努力しているし、それはそれでよくわかるけど、やっぱり二人は結婚すべきではなかった・・・と思う。ベビーが出来てしまったのがすべての間違いのもとさ。」 

 俊吉はそう言いながら、冷たく自嘲するように笑った。

 暮れ初めた加茂の河原に、相変わらず風が気持ちよく吹いていた。二人は故郷ででの幼い二人に帰っていた。俊吉の一ヶ月の留学中、殆ど毎日逢っていた。香耶もつれづれに詩を書いていると言ってニ、三見せてくれた。所々に鋭いものが見られたが、俊吉からみるとまだまだ幼稚であったが、彼は香耶を彼の関係している詩誌の同人に」し、大勢の批評に揉まれるならきっと良くなると思い、岐阜の詩誌仲間へ送ってやった。そして、詩誌を通じてだけであったが、香耶と俊吉は繋がり持つことになった。

 俊吉は香耶に読書をすすめた。何を読んでいいかわからぬという香耶に、先ず何でも読め、と、とりあえず、三木 清の「人生論ノート」、立原道造詩集、倉田百三の作品等を与えた。それで二人は幸せだった。二人のデートはいつも決まって文学論か詩論、人生論であった。俊吉はこういう触れ合いが出来ない勢以子を妻としたを今更悲しいと思いながら、自分の人生の選び方に諦めを持ったことが正しかったのかどうかふと惑わずにいられなかった。

 

 一ヶ月はすぐ経ってしまった。臨床的には特に京大へ来たからといって、得るものはなかったが、香耶との再会が大事な宝物として俊吉の胸の奥に秘められた。

  

 秋がそろそろ近づく頃、俊吉は京都を離れ、岐阜の妻子のもとへ帰った。一年後に異常な邂逅をする予感は二人には何もなく、笑って京都駅のホームで握っていた手を離した・・・。



                    ②

 人には夫々の歴史があり、好むと好まざるに拘らずそれを変えることは出来ない、自分の歴史でありながら自分ではどうすることも出来ない。

 香耶は奇妙な静けさの中でそう思うと寧ろ可笑しくなった。やけになっている気持ちはさらさら無かったが、今になって、別の自分が冷たく自分を冷たく凝視しているのを却って気持ちよく受け止めていた・・・。

 

 それは三年前のある多忙な日の午後だった。吾を忘れて動き回っていた時間がふと途切れた時、香耶は気が遠くなった。それから度々軽い貧血の発作を繰り返したため、半ば強制的に内科を受診させられいろいろな検査の後で一ヶ月の入院加療を命じられた。告げられた病名は「鉄欠乏性貧血」ということだった。


 毎日の静脈注射の液が紫色であるのが気になって、ある日主治医の橋本医師に何気なく訊ねた。変に慌てて彼は、

「これはメルチオB12」と言って、メチオニンとビタミンB12の合材で、色はB12の色だよ。」

 と言い残し、そそくさと出て行った。

 {あれ?」

 と香耶は思った・・・。

 メルチオB12は、眼科でも視神経や網膜の病気にかなり一般的に使われており静脈注射は不可の筈であった。

 香耶は直感的にこれは変だと感じた。

 何故? 何故?・・・。

 その晩、一つの計画を持って看護師詰所を覗いてみると確かめていた通り学院同期の川崎智子がポツンと坐って本を読んでいた。

 「トンコ。ちょっとお邪魔していい?。」

 「あら、カヤ。大丈夫?。二十分ほどオエライさんいないからいいけど・・・。退屈するようじゃそろそろ退院ネ。」

 「うん。」

 うわの空で返事しながら、壁際に患者別にきちんと並べてある翌朝用の注射液、ピストンの入っているトレイの中からたやすく「二百三」を見つけた。

 冷たい金属の皿の上に小さなバイヤール瓶が二つ並んで立ててあった。

 ”マイトマイシンC”と、”ナイトロミン”であった。

 紫色の粉が、香耶の心を見透かすかの様に美しい結晶を光らせていた・・・。

 それが最近開発された抗癌剤であり、特にナイトロミンは、白血病の専用治療薬であることを知らない香耶ではなかった。

 香耶は凡てをを悟った。そして、つとめて冷静に川崎智子に分かれを告げ、ベッドへ帰った。

 「私が白血病・・・?」

 何度も反芻してみても遠い世界の出来事のように思えた。だが、そうだとすると・・・・

 「そうだ、いろいろ考えなくっちゃ・・。」

 もともと"生”に対する執着はそんなに強くないと日ごろ思っていたとおり、死ぬことに対する恐怖はさほど湧かなかった。

 ただ、どれだけ生きれるのか知らないが、この青春真っ只中の短い灯りを心ゆくまで明るく光らせなければ・・・。

 「明日は先生にはっきり聞いてやろう」

 總回診の後、皆が引き上げてしまった時、香耶は橋本医師を前にして静かに言った。

 「先生・・・。私、いつまで生きられますか・・・。」入局三年目の橋本は、こんなケースには馴れていないらしく、見るからに慌てて、おどおどと型どおりのムンテラ(病状の説明)をまくし立てた。

 「全部知ってるんです・・・。だから・・・何時までか、教えて下さい。」

 香耶の冷静さに橋本は医師のタブーを破らざるを得なかった。

 「そう。すると、三年か五年は何とか生きれるんですね・・・。先生!退院させて下さい!。いいえご心配なく、大事な人生を無駄にしたくないだけです。」

 何かくどくど言いたそうな橋本医師の機先を制して、香耶は翌日の退院許可をとってしまった。

 俊吉とは、彼の京都留学を契機に、お互いの心の奥にほのかな愛の兆しを知りながら、表面だけは、親しい友人の再会で終わっていた・・・。

 香耶は岐阜の大学の俊吉宛に初めて便りを書いた。

 「・・どうしてもお話しなければならないことが出来たの・・・一度逢って下さい・・・。」

 一年ぶりに懐かしい香耶がそこにに居た。

 もとから色白だった肌はひときわ抜けるように白く、うなじの細い産毛が絹糸のように眩しかった。

 大きな眸は相変わらずだったが、今までにない燃え上がる炎をその眸は映していた。

 貧血発作を繰り返したこと。

 たまたま白血病であることを知ってしまったこと。

 この三年間は自分にとって掛け替えのない大切なものだし、一生懸命生きて、命の燃え尽きる日まで自分を見つめていたいこと。

 俊吉を心から愛してしまっていること。

 両親のこと。

 許婚のこと・・・どうしても結婚して家業を継がなければならないこと。

 香耶は一気にしゃべった。

 「・・・それで・・・両親には病気のこと言ってあるの?。」

 暫くして俊吉がポツリと言った。

 「・・・・」

 黙って香耶は首を横に振った。

 「わかった・・・香耶の気持ちよくわかった。・・・すぐ秀夫に会ってとことん話してみる。そして一日も早く結婚するんだ。これから俺が脚本を書くからその通り演じるのだ。

 俊吉が、京都郊外山崎の洋酒工場へ秀夫を訪ねたのはその翌日であった。

 「・・・そんな訳で少しでも早く香耶と結婚してほしい。三、四年経てば香耶は死ぬから、君は香耶の家へ入ってそれから又、新しい嫁さん貰って人生を送ってくれればいいのだ・・・。」

 「要するに、おまえのためにロボットになれと言うことか・・・。」

 「ちがう!俺のことはどうでもいい。独りの若い女が、短い人生を、せめて自分なりに生きたいというのを、どうしていけないことと言えるのか、俺は彼女が可哀想だから頼んでいるんだ・・・。」

 「かわいそうなはほれたってことよ・・・か。俺はガサツな男だから感情の機微はわからないけど・・・。どうも理屈にならんな。」

 小学校時代から理数科が得意で、特に算数、数学ではいつも俊吉はシャッポを脱がされていた。

 「君は相変わらず論理的すぎるようだが、考えてくれよ。ひとり身で船場酒造へ養子に行き、三、四年先に

嫁さんを貰うんだということで気持ちを納得させられないか。」

                -続くー

               ①

 

 昭和二十四年 春。


 大学の予科生活にも馴れ、出来る限りの自由を満喫していた俊吉は、学部の違う同じ大学の学生四人との怠惰な下宿生活に少し飽き飽きしていた時、同宿の学生が一つの提案を出した。

 「おい。三丁目のお花の師匠さんの所へ習いに行かないか。ここ一ヶ月ぐらい様子を見ているがなかなか奇麗な娘が沢山出入りしてるぞ。」

 「そいつは面白い。是非行こう。」

 たちまち、青春を燃やし切れなくてうずうずしている連中が、付和雷同してしまった。俊吉も何となくお茶の雰囲気に惹かれるものを感じて同意した。

 そして、週二回のお稽古が始まったが、他の連中は一ヶ月足らずで詰らながって止めてしまったのに俊吉は、茶席の無心の静けさが好きで、ついつい足を伸ばしていた。

 そんな内、俊吉の他は四人、うら若い娘ばかりの日があり、師匠は俊吉に”亭主”を命じた。

 いささか迷惑であったが仕方なく茶釜の前に座り、型どおりの作法を終わって道具を片手に亭主退席の時になり、立ち上がった瞬間、我慢していた足の痺れが俊吉を倒してしまった。

 茶筅は飛び、茶碗は欠け、あたりはひどい状態になった。

 娘達はお互いに顔を見合わせクスクス笑って袖引きあっていたが、その内のひとりが、真っ赤になって慌てている俊吉の傍へ来て後始末を手伝ってくれた・・・。

 さんざんの体で門を出てから二人は一緒になった。

 「ごめんね。手伝ってくれて有難う。おかげで救われたよ。」

 「いいえ・・・あなた、学生さん?。」

 「ああ、医学部の」予科二年、船場俊吉といいます。東栄町の二丁目に下宿してます。」

 「川瀬勢以子です。雲井町ですからお宅の裏筋ね。」

 パーマネントも掛けていない長い髪が腰のあたりまで伸びていて、黒のタイトスカートから伸びた脚が、長くはなかったけれど美しかった。

 眉毛が女にしては濃いめで、余り大きくない目に睫毛が長く、それだけ特に目立つように鼻梁が真っ直ぐのびており、やや厚めの唇が、化粧をしていないその人の勝気さを表わしていた。決して美人ではなかったが、痩せた体に長い髪、すんなりした脚と特徴ある顔立ちが、何かアンバランスな魅力を持っていた。

                                           

その後俊吉は忘れるともなく、時に茶席で一緒になるくらいで、俊吉の興味は今はお茶よりも、当時学生の間で流行しはじめた社交ダンスに向いて行った。

 本来、音楽好きで、下宿でもいつでも音楽を離したことのなかった俊吉は、音楽に合わせて體を動かすダンスに、特別の興味を見出したかった。

 そしてある日、勇気を出して街のダンス教習所の門を叩いた。

 華やかな雰囲気のなかで、男と女がリズムに合わせて楽しく踊るものという俊吉の想像はみごとに覆された。それはまさしく武道の道場そのものであった。若い男女が数組、ステップを合わせている中で、男の教師が竹の鞭を持ち、鋭い眼光を注ぎながらグルグル廻って、少しでももたつくと容赦なく脚をめがけて鞭を振り下ろしていた。どの顔も真剣そのものであった。

 最初の日は見学させられただけであったが、催眠に掛かったように俊吉は入門することにされてしまった。

 一通りの基礎が終わった処で、俊吉は何処をどう見込まれたのか鬼教師の目に留まり、特訓レッスンを受けることになり、秘蔵弟子へと育てられて行った。

そして、その年の秋の東海選手権大会に出ることを半ば強制されてしまった。入門後、半年足らずであった。

「ついては専属のパートナーが要るが、丁度恰好な人が居るから今度紹介してあげる。彼女は前にも、うちの原田君という工学部の学生と組んで東海の選手権を取ったことがるんだ。」

 その晩特訓の時、教師は俊吉にその人を紹介してくれた。黒いベルベツトのツーピースに身を包んだその人の、ストッキングのシームが奇麗だった。

 川瀬勢以子であった・・・。

 二人は思わぬ顔合わせにびっくりし、言葉もなかった。いぶかしげにそれをみていた教師の目には、二人が知りあいであったことに満足そうな笑みが見えた。

 勢以子は全く踊りやすい相手であった。パートナーとして、俊吉にとって理想的であった。特訓に次ぐ特訓で、難しいバリエーションもまたたく間に身につき、彼等のカップルは際立って華麗に育って行った。


当時、この地の舞踏界に二つの流れがあった。俊吉等の所属するモダン・ワルツアーズ(M・W)は、ワルツ、フォックストロットを主流に、踊りの流れ全体を一つの美として纏める、いわゆる英国式の流麗感を生命

としていた。

 もう一方のグループは、ダンシング・ブラザース(D・B)と名乗り、ステップの一歩一歩の個性美と、動きの美しさを主体とし、タンゴ、ルンバ、サンバ等を得意とし、どちらかというとラテン的な情熱美をその拠り所としていた。俊吉は、タンゴが好きで、また得意でもあったし、M・Wの弱点であるラテンを、M・W風に踊ることで新境地を拓こうと意欲を燃やしていた。そんな俊吉に勢以子はよくついて来てくれた。教師ー崎田大造ーも,厳しい眼光の中に、時折、満足げな温かさをみせるようになった。

 勢以子には何故か影があった。俊吉はそれを、早く父を失って母の手一つで育てられたせいと思っていたし、彼女が今、姉と嫂と三人で小さな洋裁店をやっていて、貴重な時間を割いて彼につき合ってくれているのが心苦しく、時に入る喫茶店の払いや、遅くなった時のタクシー代等、当然払うべきだと考えてそうしようとするのだが、彼女は頑として払わせてくれなかった。どんな些細時でも必ずワリカンにすることを条件にした。

 「じゃないとセコちゃん(彼女は自身をそう呼んでいた)ネ、そういうの厭なの。ボク(俊吉をそう呼んだ)に負け目を作るみたいで・・・。」

 何とまあ強情なと俊吉は思ったが、勢以子のその態度には俊吉が踏み込めない聖域を心に秘めている近づきがたいものがあって、俊吉は、この事をタブーにしようと心に決めた。


 昭和二十六年の秋の大会は大方の予想通り、俊吉・勢以子組が総合優勝した。ワルツ、フォックストロット、クイックステップそれにタンゴと、四種目のうち、クイックステップで気負い過ぎて乱れ、二位になったが、あとの三種目は見事にトップを取った。

 「乾杯!俊坊。来年は全国大会に出ないか。二年間ノミネートされるから失敗しても再来年がある。もう少し頑張ればいいところまで行けるぞ。」

 崎田教師はご機嫌だった。岐阜の繁華街、柳ヶ瀬の紅い灯青い灯も心なしか俊吉を祝ってくれるように輝きを増す風情であった。

 勢以子jはその頃、以前のパートナーであった原田とささやかなデートをしていた。勢以子の兄が機械関係の技師であったためもあり、工学部出身の原田に好意的で、内心は勢以子との交際を薦めているふしもあり、勢以子自身も決して原田が嫌いではなかったし、兄がそう望むならそれはそれでいいと考えていた。

そして今、俊吉のパートナーを依頼され、多少の困惑はあったが、茶席の縁もあり、また久しぶりの踊りに魅力もあって、O・Kし、あれよあれよという間に東海選手権まで引きずり出され優勝してしまった・・・と言う事実が、勢以子にとって何か心に残るものがあった。原田とはふとした弾みで肉体関係があって、そのことが又、原田も勢以子も、将来を意識しあう原点であったのだし、勢以子も原田の人柄から推して、結婚してもうまくゆくに違いないと思えたし、ただ、彼の正式のプロポーズを待っているという現状であった。

 

・・・その翌年の秋、二人は全国大会に出場したがみごとに予選落ちしてしまった。全国のレベルは彼等が考える以上に高いものであった。

 年が明けて崎田は俊吉に言った。

 「俊坊、セコにどんな気持ちもっているんだ?」

 「いいパートナーで有難いと思っています。」

 「ただそれだけ?」

 意味ありげな崎田の視線を、俊吉は不思議なものを見るように見返した。

 「だからもう一つ・・・なんだナ。ステップは正確だし、流れは奇麗。リズムにもうまく乗っている・・・。けど、何かピンと来ないんだナ。心がない・・・というのは酷すぎるかも知れないがジーンと来るものがない。この壁が、君達の踊りを冷たくしているし最高の所まで行けない大きい原因なんだ。」

 崎田が何を言おうとしているのか、俊吉はおぼろ気ながらわかって来た。

 「・・・しかし、これだけはどうとも仕方のない事だと思います。セコには原田さんという長い交際の恋人がいますし、彼女の心へヅカヅカ入ってゆくことは出来ません。」

 

「それそれ、そこだよ。原田君は選手権に出る前に彼女の心も体も掴んだんだ。果たして彼がほんとの恋でセコと結びついたのかどうかは大いに疑問だ。今、君に言っているようなことを前に彼に言ってやったことがあったからな。」

 うまそうにコーヒーを啜りながらそう言う崎田を、俊吉は怖いと思ったし、あの勢以子がまさか、と、信じられなかった。

 この人は一つの美の完成のためには、人の心はどうでもいいと思っているのか。大人って、そんなに冷酷になれるんだろうか。

 俊吉はもうだめだと思った。勢以子を嫌いではなかったし、むしろ出会いの時から惹かれるものを感じていた・・・ただ、”心を捕らえる人”とはちょっと違う感情だった。


 あるダンスパーテイの後、その夜は星も影を潜め、岐阜一番の梅の名所である梅林公園は、咲き初めた梅の花の香が心地よく二人の若い心をなごませ、少しばかり酔いの廻った俊吉はいつの間にか勢以子の手を取っていた。

 「崎田先生がセコを好きか?って訊いたよ。」

 「それでボク、なんて言ったの?。」

 「セコにはいい人がいるから・・・それに・・・」

 「それに?・・・」

 「ちょっと厭になったんだ。僕はまだまだ子供なんだナ。崎田氏みたいに打算出来ないもん。」

 

一瞬のためらいが勢以子にあった。原田はあの時、なにも言わず彼女を押し倒し、本能的に逃げる勢以子を征服した形になってしまった。勢以子もほのかな慕情はあったし、苦労を共にしたパートナーに対する以上のものを持っていたから後悔は無かった。ただそうなったからはもうこの原田について行くしかないと自分に言い聞かせていたし、もう人を恋することは無いだろうと思っていた。原田の最近の態度は、なにか勢以子に不安を感じさせていた。なりゆきであったことに対する責任だけで勢以子を傍においてくれる・・・俊吉にパートナーを申し込まれた事を言って彼の許可得ようとしたときも、何も言わずすんなり受け止めてくれた、と言うより、何処かほっとした思いが、その端正な横顔に走ったのを、勢以子の鋭い直感が見逃さなかった。淋しかったが仕方の無いことだと、勢以子は、自分を殻に閉じ込めることで忘れようとした。



俊吉が崎田に何を言われ、今、何を考えているのか勢以子には痛いほどわかった。原田も確かに前にそう言われて、あんな行動に出たのに違いないと思っていたから。

 静かに心を眺めてみた事はなかったが、勢以子は、ひょっとして俊吉を愛し始めている自分が心の何処かにいるのではないか、それなら、俊吉がそう望むなら、原田に固執する事はない。そうしてあげることで俊吉のダンスが良くなるのなら嬉しいと率直に思った。

 俊吉はその時まで女を知らなかった。観念的にいろいろ成長はしていたが、心も体も未だ幼いままであった。

 梅林公園の裏山は雑木林になっていて、所々に平らな窪みが落ち葉を敷いて、木洩れ月の光の、淡い、それでいて冷たい輪を幾つもその上に揺らしていた。初めての経験を俊吉は緊張と昂奮と、焦りから失敗してしまった。瞼を固く閉じてなすがままになっていた勢以子が、無意識の動きを俊吉の中心に集め、そっと誘い込むのを、俊吉は燃える頭の一隅に、ふと不審な思いに一瞬醒めている自分を見つけ、奇異な感じを抱いた。その時、勢以子は処女でないことを俊吉に告げてはいなかった。それが、一度でも男を知った女の、本能的な動きであったのか、と、俊吉は後で知らされた時思った。


 兎にも角にもあっけなかったが二人の初めての触れ合いは終わった。俊吉は勢以子を得た喜びより、大変なことになってしまったという悔念に砂を噛むような苦さを味わった。それは少しも楽しいものではなかった。夢にみていた、知識として知り得ていたそれは、もっと甘美で、切なく、いとおしいものである筈だったが・・・・。

 ひとときの沈黙の後、勢以子は泣きながら原田とのことを包み隠さず問わず語りに話していた。俊吉は何も言わず聞いていたが、聞いている内に段々深い嫌悪の気持ちに落ち込んでゆく自分自身をどうしようもなく見つめていた。


                   ②


 専門課程も二年の終わりになると、勉強嫌いの俊吉だが一所懸命やらないと取り残されて行ってしまう程日程が詰まって来た。従って、ダンスも縁を切らざるを得ない状態で、時たまのダンスパーテイに勢以子を誘って行くの精一杯であった。


そんなある日

 「明日ネ、原田君がセコちゃんちへ正式にプロポーズに来るんだって・・・。ボクどう思う?」

 窺うような眸が俊吉の奥底を覗くように呟いた。

 「それは・・・セコ坊がいいと思うようにしたらいいよ・・・。ダンスに誘えなくなるのが残念だけど・・・。」

 訣別の時が来た。俊吉は一瞬ほっとするものを覚え、これでよいのだと思った。

 「セコちゃん、断るつもりなの・・・。」

 「愛してるんじゃなかったの?・・・。」

 「・・・・。」

 心を決めたように勢以子は、はっきり言った。

 「セコちゃん、ベビーが出来たの。だから・・・お嫁にゆけないの・・・。ボクのベビーよ・・・だから・・・セコちゃん欲しいの。」

 目の前が真っ暗になり、よろめく体を抑えることが出来なかった。当然の帰結であるのに俊吉は、奇蹟が起こって、自分の一生がすっかり変わってしまう予感がした。

 郷里の父は怒った。昔気質で、旧家のぼんぼんであり、お医者様として常に皆から見上げられていることに馴れている父は、心から怒った。

 「・・・どこの馬の骨ともわからん女と乳繰りあって、赤ん坊まで作り、一体どういうつもりなんだ・・・。」

 「結婚します。そうするのが彼女に対する義務だと思います。」

 「生まれも育ちも違うそんな女の子が、果たして船場家の嫁としてやってゆけるのか。」

 一抹の不安はあったが、彼女の性格、人となりは、田舎の医院の奥様としてはむしろ皆に好かれるだろうし、深窓の令嬢よりは、世間との折り合いもうまくゆくと思うと、俊吉は父を口説いた。

 ダンスのことは勿論一言も言わなかった。勢以子と俊吉を結びつけているものはダンスだけだったし、その他では全く違う二人であることを知るようにになった俊吉であったが、運命の軌跡を辿るにはこうするしかないと、一つの諦めに似た心境であった。そんな微妙な心の揺れを、人は知る筈もなく大恋愛で結ばれたという大袈裟なロマンスだけが人の口を賑わした。

 

 二人は結婚した。

 結婚は俊吉にとって単なる方便に過ぎなかった。人生について定められた枠がますます狭いものになった実感だけ残って何の感慨もなかった。

 二人の間に共通するもの、それはただ若さのみであった。俊吉は数年前から参加していた詩誌のために総てを没頭しはじめた。本業の学生生活も卒業試験を残すのみで殆ど終わっていたし、大好きな詩作にのめり込むことが唯一心の支えであった。少しづつ少しづつ詩仲間で知られるようになって来て、新聞、ラジオ等からの創作依頼も来るようになってきた。仲間の詩人達と夜遅くまで語り合う日が多くなり、勢以子は、自分には凡そ縁の無いところで燃えている俊吉に、ある種の苛立ちを覚えていた。

 男の子が誕生し、二人は若い父と母とになったが、俊吉に特別の感情の動きのない冷たさが何から来ているか勢以子には理解出来なかったが、勢以子なりに幸せであった。


 学生の身で一銭の収入もない俊吉であったから、父からの送金と、勢以子の燃せでの稼ぎとで親子三人暮らしてゆくのは大変であったが、そういう点では勢以子は世慣れていた。適当に遣り繰りし、適当に貯金も出来、大学入試時、トランク一つと机だけで岐阜へ出て来た春季地も、今はまがりなりに若世帯一式の家具の揃った、借家ではあったが、一家の主であった。


 そして、大学を卒業し、インターンを終え、国家試験を済ませ、昭和三十一年の八月、母校の眼科教室の助手に任官する予定であり、その前に京都へ来て、香耶との出会いになった・・・。


                            -続くー

         憧憬遍歴

 

        (一)


 冬。

 粛条と、冷厳ににそこに在った。土地の人が鷹城山と呼ぶ標高八百米ほどのその山は、彼が物ごころついて以来十八年、いつも北西に険しくそびえていた。

 --昭和二十三年一月、その年はつねになく寒さが厳しく、南飛騨のこの小さな田舎町に尺余の雪を敷き詰め、北西の強い風ーー鷹城颪ーーがことの他強烈だった。

 船場俊吉、十八歳、今春は最後の中学生生活に別れを告げ、定められた運命の医学部の難関に挑まなければならぬ孤独で辛い日々を背負って、いまこの小駅に立った。

 五年間、朝六時に家を出て夕七時に帰宅、汽車で一時間あまりの飛騨高山まで通学を続け、多感の思春期を送って来た。そして、やがて来る遅い春を精一杯待っている最後の冬であった。

 いつもの様に鷹城颪を右頬にいたいほど受けながら、寂莫と宵明かりの雪道に歩を進めたーー。

 「お兄ちゃん 一寸待って」

 俊吉は思わず声をかけられ、寒風を避けるため被っていたマントをそっと外してふり返った。

 香耶ー俊吉と同姓であったから狭い北国の田舎町のこと、恐らく遠い血縁にはなるのだろうが、それよりも幼馴染としての意識の方が強い十四才の、真っ赤な頬をふくらませ、たまだ乙女にすらなっていない香耶の大きな眸が笑っているのをそこに見た。

 赤い手袋の中に白い封筒を握り締め俊吉をじらすように、二、三歩あとずさりしながら言った。

 「はあい これ。あの人ね、これでもうお仕舞にしましょうって・・・。」

 つられて俊吉はポケットから出した手でその封筒をひったくった。性急すぎる動きに香耶はあわてて手を引っ込めた。そして、封筒の一部と桃色の便箋を香耶に残したまま俊吉は空(から)の封筒の半分をちぎり取った形になった。

「おい こら、よこせよ 子供の見るものじゃない」

 俊吉はなぜか慌てた。香耶が伝言したように、それは"恋人”からの絶縁状であることを彼は知っていたしそれを香耶に見られることの格好悪さを感じていたからであった。素直に手紙を返してくれた香耶であったが、笑っている筈の顔の中で大きな眸だけが冷たく、俊吉を射すくめた。思わず赤くなったーー。

ーーそう言えば香耶に"郵便屋”ばかりやらせて面白くなかったのかなーー

 が、たかだか十四の小娘になにがわかる、と俊吉も精一杯大人ぶった自分には気がつかずそう思った。

くるっと踵(きびす)を返すと、香耶は雪道を引き返し俊吉も家路は向かって歩を進めた。

 鷹城颪は一際強く痛く"恋人”の去ってしまった苛立たしさを噛みしめながら・・・。

 春。

 G医科大学予科へ入学した俊吉は、試験にパスしたこととりも、やっとこれで、厳しい父と、出来るかぎり模範的な母たらんと努めてくれている継母、勝気で俊吉とはまるで肌合いの違う腹違いの妹達との煩わしい生活から逃れ、気ままに自由な生活が出来ることの喜びに心をときめかしていた。たとえそれが大学生活の束の間の"時”であるにせよ、今の俊吉にはこよない宝物に思えたし、すべては四月からの新しい出発(たびだち)への希望に胸一杯であった。

 俊吉のそんな姿をじっと見ている香耶のことは、当然頭の中になかった俊吉であった。

 つくし、ふきのとう、桜草・・・。

 遅い南飛騨の春も今たけなわであった。まるで俊吉の門出を祝うかのように・・・。

 夏。

 遅咲きの紫陽花に露が結ばなくなってくるとこの山国にも夏らしい風が吹きはじめる。

 この頃、香耶は折々俊吉の噂を両親から聞く機会があった。

 「お医者さんの俊ちゃん、一学期に一度も帰らなかったそうね」

 「あの子もいろいろ辛いんだろう。継母と厳しいおやじさんに何だかんだ言われて・・・。もともと医者には成りたくないんじゃないか」

 「中学の時も和歌だとか小説だとか、勉強よりそっちの方ばっかり熱心だったらしいですよ」

 「Gにいい人でも出来たのかなナ」

 「まさか」

他愛ない両親の茶呑み話だったが、香耶はきっとそうに違いない、おにいちゃんのことだから、又、例の”恋愛ごっこ”しているのだろうと思うと、つい声を出して笑ってしまった。

ーーそしてーー香耶の頭の中にいつもあるひとつの情景が又浮かび上がって来た。

 それは香耶が六才か七才、俊吉が十才か十一才の幼い頃、船場病院と道を隔てて古いお寺があり、その広い境内がいつも子供達の恰好な遊び場であったのだが、その日はいつもと違って珍しく男の子女の子が一緒になってかくれんぼをしていた。ジャンケンで負けた俊吉がオニになり、皆ちりじりに、あちこちにかくれた。

 「・・・九十九、百、いくよ」

俊吉はあたりをぐっると見回した。鐘楼の影に絣の着物に赤い帯の端がチラリとみえた 香耶だな と思ったが、そのままにしておいて別の方向へ探しに行こうとした時、松の枯れ葉がパラパラ落ちてきた。上をみるとガキ大将の三郎が、必死に松の幹にしがみついていた。

 「サブちゃんみつけた、降りといで・・・。」

 その声で、みんなぞろぞろ出てきた。サブちゃんもズルズル降りて来たが、その顔は怒りで真っ赤にふくれ上がっていた。

「俊坊。ずるいぞ、お前 俺より先にカヤちゃんみつけたやないか。ちゃんと俺、上から見とったんやから・・・」

三郎はそう言いながら、やがて集まった皆を眺め回し手拍子を取りだした。

 「シュンボウとカヤはヤアイヤイ」

 皆も手を打ちながら囃し出した。

「シュンボウとカヤはヤアイヤアイ ネンネが出来たらどうしましょ。どうしましょ。・・」

 俊吉は囃したてられて、これまた真っ赤になって三郎を睨みつけていたが、突然 香耶の前へ来るとピシャリと平手打ちをくわせ、

「カヤなんか大嫌いだ。おまえなんかどっかへ行け。」

 と大きな声で怒鳴りつけると、そのまま裏山のほうへ走り去ってしまった。あっけにとられた香耶であったが、驚きと、悲しさと、ちょっぴり痛さが悔しさになり、ワアワア泣き出した。境内は一瞬しんととし、子供達は香耶ひとり置いて迯ように散っていった。

 「おにいちゃんが香耶をぶった」

 何故ぶたれたかわからなかったけど、あの時の痛さは、今も右の頬が覚えている・・・

ーーー窓の外の紫陽花が、さんさんと太陽の光りを映して眼に痛かった。そんなせいか、昔の痛さを思い出したせいか、香耶はわけもない涙に自分で驚いていた・・・が、それが漸く少女から乙女に変わりつつある女の性(さが)の故とは気づかなかった。


夏は農村の若者にとって、一年で一番楽しい時でもある。 野良仕事も一段落し、もうすぐ始まる盆踊りの練習という名目で、男も女も夜半過ぎまで外出することは半ば公然許され、例え男女組になって歩いても好奇の目で見られることもない・・・。

 夏期休暇をほんの少しだけ故郷で過ごそうと俊吉は、お盆ちかくなってひっそり帰郷した。

例のお寺の境内が盆踊りの練習の場でもあったし、寝付かれぬままふと踊りの集団に入りたくなって俊吉はこっそり門を開けて出た。


 午後十時を廻った夏の月が、中天にかかり、境内はいろとりどりの浴衣に身を包んだ若い男女の群れで、あたりの空気までが熱っぽかった。

 俊吉はそっと山門の柱の影から見るともなく踊りの輪を見遣っていた。小学校時代の同級生の顔も、三々

五々大人ぶって混じっていた。その中に、濃い大柄の藍染めの浴衣に赤い帯を締め、長い髪を後ろで無造作に束ねた大きい眸の女の子の姿が目に入った。

 それが、余りにも新撰な香を漂わせいたので俊吉は思わず目を止めたーー香耶であった。

 四ヶ月ほど見なかった裡に、香耶は随分大人びていた。俊吉の頭の中には、お転婆で勝気な、ちょっと可愛い女の子としての印象しかなかったので、今、目の前に居る初々しい乙女の香を馥郁とさせている花が香耶と知った時、俊吉は、たじろぐ心に吃驚した。クルリと踊りの輪が廻った時香耶も気づいた・・・。

 乙女は踊りながら、男は黙ってじっと、眼だけを絡ませながら・・・。

十分ひどしてから、そっと輪を抜けて香耶が俊吉の傍へ寄り添った。やがて黙って二人は川岸へ向かう小経へどちらからともなく歩みを進めた。

 「あ、ホタル。あれ採って!」

 香耶は蛍が好きだった。どちらかと言えば気の強い陽気な子であったのに、葉かげでひそやかに吐息する蛍を無性にいとしがった。

 月は今、その美しい影をうすい雲に隠し、あたりが暗くなって蛍がひとつ、おいでおいでするように川岸のすすき間で息づいていた。

 俊吉は足場を確かめながらつと手を伸ばして掴もうとした瞬間、足元の土が崩れ、あっという間にがけをずるずるずり落ち、草の根に足を止められるまで何が起こったか、ふと、わからなくなった。気が付くと崖の端は手を伸ばしても届かぬはるか上のほうにあった。

「おにいちゃん、だいじょうぶ?」

「大丈夫。だけど上がれないよ」

 香耶の白い顔が崖の上から覗き、左手を精一杯伸ばして差出したが、俊吉の伸ばした手と触れ合うことすら出来なかった。

 「ちょっと待っててネ」

 そういうと香耶顔が一瞬消え、束の間、すんなりした白い脚が二本、浴衣の裾も露わに俊吉の頭の上へ伸びてきた。

 なんと!崖っぷちの松の根元にしがみつき、香耶がぶら下がる恰好で、顔を下へ向けて叫んだ。

 「香耶の脚つかんでよじのぼって来て。早く!」

 一瞬の躊躇いの後、意を決して俊吉は香耶の細い足首を掴んだ。そしてなるべく手には力を入れないように足元を固めながら、香耶の背に覆いかぶさる形で少しずつ少しずつ昇って行った。

 

 後ろから香耶を抱いたまま俊吉は崖の上で荒い呼吸(いき)をしていた。香耶も束ねた髪を乱してそのままの形でぐったりとしていた。

 ひとときが経った。俊吉はゴロリと仰向いて雲の間を走る月に目をやりながら呟いた。

 「とんだ目に」あったナ 香耶。ひさしぶりに逢ったというのに・・・。」

 並んだまま寝転がっていた香耶が

 「足首が痛い・・。おにいちゃんて痩せてるのに案外重いんだもん」

と言いながら俊吉の顔の上に体を預けるように重なった・・・そのまま急に激しくむしゃぶりついて来て

 「おにいちゃん大好き!」

 といいながら俊吉の顔の上へ熱い涙をポトポト落とした。体の芯が熱くなって頭ががんがんし、胸が苦しくなって俊吉は吾を忘れた。

 青い果実が触れ合うように二人は唇を重ねた。涙と、吐息と、草いきれの混じり合ったその感触は、いつか遠い昔、いたずらにちぎって噛んだ紫陽花の花の味とそっくりだ と俊吉は思った。

 幼すぎる二人はそれ以上どうしていいのかわからず、いつまでも腕を絡ませ唇を合わせままでいた。気がついてみると俊吉は香耶の頭を膝に乗せ、その黒髪を何度も何度も撫でていた。

 瞼を閉じた香耶の口から言葉が走った。

 「香耶。おにいちゃんのお嫁さんになりたい!」

 俊吉はそんな香耶をこよなくいとしく思いながらも、二人を結び付けるには、到底乗り越えることの出来ない垣根の沢山あることを今更のように強く感じていた。


船場香耶ーー彼女はこの土地の古い造り酒屋の一人娘で、いずれは恰好な養子を取って家業を継いで行かねばならぬ運命だった。

 俊吉は五代続いた土地生え抜きの医者の長男で、これまた、六代目の医者となって此処に根を下ろし、病院の看板を背負って生きてゆかねばならぬことは、彼が生れた瞬間に敷かれたレールであった。

 若い、というよりはむしろ幼い今の二人にとってはあまりにも抜け難い柵(しがらみ)であったし、香耶も俊吉も、それは当然の宿命として甘受しなければならないものとしか考えつかなかった。

 そして、二人は月見草の散り初める頃、別々の世界へ脚を踏み入れていった。

 俊吉十九歳、香耶十五歳の、昭和二十三年九月であった。


ーーーその頃 四国、南伊予の小さな町で、学校教師の末娘として、新家英子は何不自由ない生活の中で二歳の誕生をむかえ、また、南予の漁港近くの町で、網元の長男、外村吟ニが呱々の声を挙げていた・・・。


                        ③

 そして十年余り・・・。

冬。

昭和三十四年三月

京都の早春はまだ厳しい寒さが耐えられない日が続いていた。

 京大付属病院内科病棟ニ○三号室は、戦前に建てられた古い木造の二階にあり、ゆるんだ建具の隙間から、時折”風花”と一緒に冷たい風が吹き込むほど老朽化していた。

 船場香耶は病床に臥っていた。しばしのまどろみの中で、俊吉との、あの劇的とも言える再会の衝動を夢見ていた。

 三年前の夏、それはこの京都で、思いもかけぬ出会いであった。

ーーー高校を終える時、両親は彼女がそのまま家に残って花嫁修業をし、いい相手を養子に迎える日の一日でも早いことを願っていたが、香耶は、半ば設定されたいるそういう人生に身を流す心構えではいたものの、少しの間でも、人生のほんのひとときを、自分だけで生きてみたいと思い、おそるおそる両親に、ニ、三年外へ出たいと申し出た。

 「それで、何処でどうしようって言うの」

 「京都あたりで何か身に付くこと勉強したいの」

 そう言った時、両親は目を合わせ、思わせぶりにそっと尋ねた。

 「おまえ、誰かに何か言われたの?」

 「いいえ、何も・・・」

 「実は・・・」

 と母親が話してくれたのは、隣町の酒屋の三男坊が、岐阜大農学部の醸造科を出て、在学中奨学金を貰っていた京都郊外の有名な洋酒メーカーに就職していることは、その人、上野秀夫が、俊吉の小学校、中学校の同級生であり、いつでも俊吉と級長を争う好敵手であったためもありよく知っていた。

 両親は、香耶の相手にと白羽の矢を立て、先方の両親の内諾は得ているが、何分まだ高校生だから・・・と、今のところは両家の間だけの口約束みたいな形のままになっている・・・

 「それをカヤちゃん誰かに聞いて、先々のために京都へ行きたいというのなら私達大賛成。なにも言うこと無いよ」

 香耶は寝耳の水の話でびっくりしたが、双方の思惑はともかく、昔から何となく好きだった京都へ出して貰える喜びにすべてを忘れてうなづいた。


京大付属の高等看護学院を卒業し、国家試験をパスし、半年間の病院サークルを終わって眼科配置を専属に定められたのが、昭和三十一年四月のことであった。何故看護師の道を選んだのか、香耶自身、漠然と自分の心がそう命じるものがあった気がしたからであったが、その時はよく解からなかった。

 同じ年の四月、インターンを終わった俊吉が岐大眼科教室へ入局し、彼も又彼の敷設された人生を確実に進んでいた。

 

 そして七月。

 詰め所で汚物の後始末をしていると、外来番になっている吉浦千鶴子がカルテを持って飛び込んで来た。

 「ちょいと。今日から来た岐大の留学の先生、素敵よ。若くって、スマートで、やさしそうで・・・でも残念ながら奥さんと子供さんあるんだつて」

 お茶目で積極的な彼女は皆に好かれていたが”放送局”の綽名の通り、最新のニュースを振り撒いて歩いていた。

 「そのタネ、何処から仕込んだのよ。直接アタックしたの?」

 「違う違う。実はうちの岸田先生が岐大で同級生だつたんだつて。今、岸田先生から頼まれちゃった・・」

 香耶は岐阜という言葉に一寸懐かしさを感じたが、すぐ忘れて仕事の続きに取り掛かった。


 翌日からか耶は外来輪番になった。

 浅川教授の診察は懇切を極め、特に予診をとった新入局の医師に対しては冷厳そのものであった。

 香耶は、初日から教授診察の介助に着かされた。そして、漸く十数人の診察が終わった時、俊吉が一人の老婆を連れて診察室へ入ってきた。俊吉は気づかない・・・・。

 香耶はあっと想ったが」すぐ気を取り直し、内心(おにいちゃんどんな顔するかナ)と好奇心を抱きながらつい口元の綻ぶのを禁じ得なかった。

 「先生、患者さんを此処へ」

 おどおどしながら脚をもたつかせている老婆の後ろを押すようにしている俊吉に、香耶は声を掛けた。そしてーー俊吉の目が、白衣の香耶を見つけ、いぶかしげに、全く珍しいものを見たように呆然と立ち竦んでしまった。

 「船場君と言ったかネ。岐阜の清水君は元気かナ」

 俊吉の恩師、清水教授は、淺川教授のおとうと弟子にあたり、その縁で俊吉を京大へ留学させてくれたのだ。

 そう声を掛けられ、俊吉の慌てようはひどかった。全く吾を失った様に、しどろもどろ、教授との問答も無我夢中で、何を言ったのか自分でもわからなかった・・・。

 汗びっしょりで診察室を出て予信室へ帰る廊下に、いつの間にか香耶が立っていた。

 「夕方六時、正門前で待ってて・・・。詳しいことはその時にネ」

 片目を軽く瞑って、白衣の裾を翻して去って行った。妖精でも見たように、ポカンとその後姿をただ眺めているだけでの俊吉であった。


 「びっくりしたでしょう。香耶だって、岐阜からの先生がおにいちゃんとは思ってもみなかった・・・。でも、こうなるのを期待してプレさんになったのかも・・・。」

 漸くくれなずんで来た八坂神社の境内は、京都の夏には珍しいそよ風が吹いており、何処かで、群れに取り残された蝉の声だかが慌ただしかった。とりとめのない話を続けながらいつの間にか二人は加茂川の河原へ来ていた。あたりはすっかり薄暗くなり、対岸の街の灯りが遠い世界のように見えるこの薄き河原は、逢引きの名所であり、暑い夏ではあったが、やぶ蚊が殆ど居ないのが不思議なこの辺りであった。

 そこここにカップルの姿があるのも意に介さず、二人は河原のススキの間に腰を下ろした。

 「おにいちゃん、結婚したんだってネ。きっと凄いロマンスがあるんでしょ?。聞かせてよ、なにもかも・・」

 ほっそりした白い脚を相変わらず美しいなと思いつつ俊吉は、妻との出会いから今に到る物語を、やっぱり香耶にはしなければならないと思いながら口を切った・・・。